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聖パウロ山修士    St. Paulus Eremita             記念日 1月 15日


 聖パウロ山修士は230年頃エジプトに生まれた人である。父母はキリスト信者で家もすこぶる豊かであったから、子供にしっかりした宗教教育を施す一方、普通の学問も十分に授けることが出来た。
 パウロは15歳にして両親を失った。ところがちょうどその頃ディオクレチアノ皇帝が、聖会に峻烈な迫害を加えたので、パウロは奔って姉の家の所有地に身を潜め、五、六年人目を忍んでいた。然し異教人である姉の夫は、若いパウロが相続した豊かな財産をわが物にしようと思い、彼を官憲の手に渡そうと企てた。そこで当時22歳の青年パウロは逃れて荒れ野に行き身を隠して迫害の終わるのを待ったのである。
 その荒れ野の奥深く、人跡絶えてないあたりに一つの窟があった。彼はそこを住みかとし、渇すれば程近い泉に行って清らかな水を汲み、炎天には翠滴る棕櫚の葉陰に涼を納れた。かような孤独寂寥の中に苦行の生活を営むことしばし、彼はその境涯に汲めども尽きぬ味わいを見出し、遂に迫害が終わっても一生をこの荒れ野で過ごそうと決心するに至った。
 かくて彼は43歳まで窟の傍に立っている一本の無花果の樹の実ばかりを食物として暮らした。が。その後はあのエリア預言者のように不思議にも毎日1羽のカラスがくわえて来てくれる半分のパンに生を終わるまで養われたのである。
 彼が死ぬ少し前、天主の特別な御勧めに依って、当時90歳という高齢にあった偉大な山修士、聖アントニオが彼を訪ねて来た。2人はそれまで一度も逢った事がなかったので、互いに先ず名乗り合い、さて天上の事に就いて聖い談話を交わしていると、ちょうど例のカラスが飛んできて、いつもは半分だけなのに、今日は一個のパンを落として行った。アントニオが驚いてカラスを見送っていると、パウロは笑いながら言うのであった。
 「これは有難い天主様の御慈悲ですよ。あのカラスはもう60年以上もこうして毎日、私にパンを半分づつ持って来てくれるのです。今日は然し、貴方が来られたので、天主様は御馳走を倍にして下さったのでしょう。」
 彼等はそのパンを食べ、泉の水を飲み、それから天主にそのお恵みを感謝した。夜になると2人は声を揃えて祈りをした。そして朝を迎えるとパウロは客に言った。
 「私の最期は近づきました。天主は私の為臨終の祈りをさせようと、貴方を遣わし給うたのです。どうぞ貴方がアタナジオ司教様からお貰いになったマントを持って来て下さい。それで私の遺骸を包んで戴きたいと思いますから。」
 アントニオはこの言葉を聞いて大いに驚いた。何故というのに、天主の御啓示がなければ、そういうマントがある事など、到底相手に解る筈がなかったからである。彼は言われるままに急いでマントを取りに帰り、引き返す途中パウロの聖なる霊魂が、天使達に導かれて天に昇る所を見た。窟に行って見ると、パウロはあたかも祈ってでもいるように、天を仰ぎ、両手を広げ、跪いたままであった。けれどもその魂は既にこの肉身の中になく、祈りつつ懐かしい天父の御許に飛び去っていたのである。
 アントニオはその遺骸を聖アタナジオ司教のマントに包み、洞穴の前に運んで、そこの棕櫚の木の下に葬ろうとした。然し土を掘る道具がないので困っていると、荒れ野の方から二頭の獅子が現れて、その力強い前足でたちまち深い穴を掘ってくれた。これは天主が奇蹟を行って彼をお助けになったのである。アントニオはパウロの遺骸をその中に埋葬したが、聖い記念として、パウロがその棕櫚の葉を綴り合わせて造った衣服を持ち帰り、教会の大きい祝日にはいつもそれを身に着けたという。
 聖パウロが帰天したのは343年の事で、行年113歳。荒れ野に住み始めてからおおよそ90年目に当たる。

教訓

 聖パウロは青年時代に、ほんの暫く隠れているつもりで荒れ野に行った。然し天主との交わりがどれほど甘く楽しいかを味わってからは、浮き世の財産や快楽を望む心など少しもなくなった。聖ベルナルドは「被造物に求めず、造物主御自身に求める喜びこそ真の喜びである。それに較べれば浮き世の歓楽など物の数でもない」と言い、また聖ヨハネ・クリゾストモは「敬虔に善徳の生活をするように励むならば、我等の心からは悲しみや苦しみというものが全くなくなる」と言った。我等も試みに、真心尽くして天主に仕えて見ようではないか。